https://www.instagram.com/p/CL51YJ-lKc9/

藤原氏の子孫で特に力を持ち、摂政関白に任じられた家柄が、近衛九条二条一条鷹司、ご存知五摂家です。

摂関家の地位は極めて高く、天皇を除く宮家よりも高位にありました。

ところが明治維新で華族の五摂家と宮家の地位は逆転します。

さらに戦後、GHQの政策によって華族制度は廃止され、五摂家も特権を奪われます。

が、各界に幅広い人脈を持つ旧華族の影響力は政財界に今なお現存しています。

「財閥系の閨閥には婚姻を通じて多くの旧華族が繋がっています。今も霞会館というインナーサークルを通じて新しいビジネスが生まれています。」

https://www.news-postseven.com/archives/20160717_428779.html?DETAIL

近衛忠煇は、 日本赤十字社名誉社長国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長を歴任。特定非営利活動法人日本紛争予防センター顧問、公益財団法人日本国際フォーラム参与。

鷹司尚武は、伊勢神宮大宮司神宮司庁代表役員を経て、神社本庁統理。日本電気通信システム(NEC通信システム)社長を務めた。養母の鷹司和子昭和天皇の第三皇女であり、明仁上皇は義理の叔父にあたる。

九条 道成は、明治神宮権宮司を務める。藤裔会(藤原氏の末裔の人々の会)会長。曽祖父にあたる道実の妹は第123代大正天皇后・貞明皇后であることから、第126代天皇徳仁秋篠宮文仁親王は実の四従兄にあたる。

一條 實昭は、弁護士。

二条基敬は、神職実業家二条良基公顕彰会役員を歴任。

藤原氏は元々壱岐の卜部家の筋であり、亀卜を家業とする支那の卜者でした。

亀卜(きぼく)は、カメ甲羅を使う卜占の一種。カメの甲羅に熱を加えて、生じたヒビの形状を観て占う。

起源は古代中国で、の時代に盛んに行われていた。占いの結果などを彫り込んだのが甲骨文字である。漢代には衰え始め、唐代になると卜官も絶えた。日本には奈良時代に伝来。宮中関連の卜占は、それまでに行われていたニホンジカ肩甲骨を使った太占からに亀卜へと代わった。

当時の支配層は、対馬国壱岐国伊豆国卜部神祇官の管轄下に組織し、亀卜の実施と技術の伝承を行なわせた。卜部の技は、秘事かつ口伝であったため、材料(カメの種類や甲羅の部位など)や技術に係る未解明な部分も多い。

亀卜は、21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われている。宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角(悠紀と主基の国)を決定する際に用いられる。2019年(令和元年)5月13日に皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。2018年に行われた準備作業では、東京都小笠原村アオウミガメの甲羅が調達されている。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=3890565

ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルハーグによれば、中臣氏=藤原氏の祖である天児屋命の「コヤネ」とは、モーセの兄アロン直系のレビ人「コーエン」、もしくは「コーへン」を意味しています。

 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=288685

藤原(卜部⇒中臣)氏が、国家の中枢に食い込み、神道に『祓い(はらい)』の考えを深く入れ込んだので、今の形となりました。

https://ameblo.jp/kenyuhyouri/entry-12339201344.html

6世紀頃、朝廷に仏教や道教などと共に大陸の呪術が入ってきた中に、占いと祓いと言う今までになかった呪術を操っていた卜部氏がいて、それが神功皇后の加護を得ました。

祝詞を奏上するのが中臣氏の仕事だったので中臣祓(なかとみのはらえ)や中臣祭文(なかとみさいもん)とも呼ばれます。

https://pentacles1.com/norito/

大祓詞はYouTubeにたくさんアップされていますが、大変気持ちが悪いものです。

神社で祈祷を受ける際は神職が祝詞を奏上し、願い事を神様に届けてくれますが、自分自身でも日頃から祝詞を唱えると「神様と繋がる+願い事の引き寄せ」ができる…とのことですが、

仮に願い事を叶えてもらえたとしても、悪魔が相手ですから、ろくなことがありません。与えても後で奪いとるのが悪魔です。

晩年になって不幸な人生を送る人が多いのは、本当の神様ではないものに頼ってきたからです。

神道も仏教も悪魔崇拝であることは、ラプトさんのブログで納得できます。

https://rapt-neo.com/?p=24282

中臣鎌足は、百済の王子「豊璋」なのか?

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334267

藤原氏の出自については百済王族説、すなわち、歴史に突如現れた藤原鎌足と百済王子・豊璋を同一人物とする説 が主流になっています。

一方で、藤原氏が白村江の戦いに勝利した唐の進駐軍であるという説があります。

(上記でも藤原氏は、亀卜を家業とする支那 の卜者。)

その根拠は、

【1】藤原氏の藤とはトウと発音し、そこに唐から来た者の意味を表現しています。

【2】「岡山地方に伝わる桃太郎伝説」
桃太郎は唐の進駐軍であり、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍(鬼)とよばれていた原住民(縄文人)討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪していました。

唐(トウ)→桃、藤に変化したという説。群書類従正篇巻69の『唐大和上東征伝』538頁の一節に、「天宝十二年十月五日、日本国へ行くという(鑑真)和上和尚に吉備の桃原(輩)四人を通弁につけた」という一章があり、唐(桃)を源(原)とするという意味らしいです。

【3】唐の史書「旧唐書」の記述
旧唐書には、この列島の『倭王』が、唐に連行されていたことも記されています。

『仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會、高宗甚悦』つまり、665年、この列島を征服した司令官であった劉仁軌は、新羅・百濟・耽羅・倭の四國酋長を連行しており、それを見て高宗は甚だ悦んだとあります。

あらゆる制度や衣装が唐の制度に変えられてしまい、名実ともに唐王朝の傀儡国家としてその姿を整えました。
旧唐書には、『長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進?冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす、身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていました。真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美でした。武則天は、これを麟?殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させました。』

唐王朝は、日本列島を朝鮮半島や東アジア制圧のため、反唐勢力の影響を排除するといった目的で支配し続けました。

その支配者集団は、唐(藤)を源(原)とするという意味で、藤原氏を構成しました。

●『鎌足家伝』によれば、鎌足は暗唱できるほど、古代中国の兵法書『六韜』を愛読していました。

「能楽 海人」において、藤原鎌足の娘は、武則天

讃岐国志度寺の縁起、藤原氏にまつわる伝説を素材に、ドラマチックに作り上げられた作品。藤原房前の出生譚や、藤原鎌足の娘がの第3代皇帝・高宗の后になったという伝説、海底に奪われた宝物をとりかえす海人の伝承、房前が志度寺に寄進したことなどを題材としている。わが命を犠牲にしてまで子の栄達を願う母の行動を主筋に、法華経による女人成仏などの宗教性も加味した人気のある能のひとつである。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=468429

能『海人』詞章に、「今の大臣淡海公の御妹は。もろこしの高宗皇帝の后に立ち給う。かの后の御氏寺なればとて興福寺へ三つの宝を送らるる。」(金春流詞章より)があり、藤原不比等の女きょうだいが、唐の第3代皇帝高宗の后になったことが記されている。つまり、興福寺の造営が669年であることから、それ以降に后であった人物は、655年に立后された武則天ということになる。さらに、藤原不比等の女きょうだいが武則天ということになると、彼女の父親は、興福寺の造営理由でもあった藤原鎌足ということになる[15]

武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っています。

その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどありませんが、「圀」の字は日本で徳川光圀本圀寺に使用されています。

「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたもので、他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「曌」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものでした。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=64786

悪女で有名な 則天武后=武則天は、弥勒菩薩であり天照大神!?

唐の李皇家は老子(李耳)の末裔を自称しており、道教を国教としていました。

それに反発してか、武則天は仏教に傾倒し「仏先道後」を定めます。

武則天は、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせました]

なお、大雲寺は、実はウイグルのマニ教徒の寺院であるとする説もあります。

高宗や武則天は、毘盧舎那仏の大仏造営を発願し、武則天は自らの脂粉銭(お化粧代)二万貫を寄付し、大仏の顔は武則天に似せて造られたといいます。

※武則天の容貌を写し取ったと言う伝説は、今では否定されています。

https://4travel.jp/travelogue/11632893

いずれにせよ、奈良東大寺大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は、武則天を真似たものでした。

https://www.y-history.net/appendix/wh0302-102.html

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=64786

正倉院宝物には唐製の物も少なからず含まれています。

正倉院に伝わる女性用の履物「繍線鞋」の素材に、日本には自生しない黄麻(ジュート)が使われていることが繊維の分析で分かり、唐(中国)からの舶来品であることが裏付けられたと、宮内庁正倉院事務所が19日、発表した。正倉院紀要第40号に掲載された。

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/409923/

藤原鎌足は、韓人ではなく、唐人である可能性大です。

https://rapt-neo.com/?p=29280

「毘廬舎那如来」というのも、実は「大日如来」の別名であり、「天照大神」のことだと言われています。

武則天の

武則天の照は、天照大神の照でしょうか。

神仏習合が奈良時代の間にどんどんと広がったのは、武則天の仏教と藤原氏の神道の影響でしょうか。

春日大社と興福寺は、藤原氏の氏神・氏寺として古来は一体となっていました。

春日大社の神饌菓子は、“唐菓子”「ぶと饅頭」

さらに日本は、唐李家の道教の影響を受け、日本全体が知らず知らずのうちに悪魔崇拝をさせられることになりました。

唐王朝は、唐(藤)を源(原)とする藤原氏によって、日本列島を支配したということでしょうか。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO18679650S0A121C1000000?page=2

ちなみに東大寺大仏は聖武天皇の発願により制作されましたが、

聖武天皇の実母も妃も藤原不比等の娘。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13223702893

天皇家と藤原氏の近親相姦が続き、為政者が無能の暗黒の平安時代に至ります。

悪魔崇拝者の滅びをお祈りします。

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