後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたもので、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武の中興に関った人々を祀る神社がその縁地などに作られました。

http://www.komainu.org/sonota/kenmu15/kenmu3.html


その建武中興十五社の井伊谷宮(いいのやぐう)李花紋がありました ! 後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀っています。社殿の背後には宗良親王の墳墓もあります。神紋(裏紋)の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の歌集の李花集に因むものです。

https://genbu.net/data/toutoumi/iinoya_title.htm 

後醍醐天皇は密教信者、レビ族で李家なのでしょうか? 後醍醐天皇と関わりがあるところに梅林があります。

1331年、奈良の笠置にいた御醍醐天皇が、さらに落ち延びる時、天皇家の女官達が月ヶ瀬の地に逃げました。御醍醐天皇は女装して女官になって御所を脱出した様です。
その女官のひとり、園生姫が世話をしてくれたお礼にと*烏梅の製法を村人に教えました。(姫若伝説) その梅の実を採るためにたくさん梅の木を植えたのが月ケ瀬梅林のもとになっていると伝えられています。
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-629.html

*烏梅(うばい)は、未熟な梅の果実を薫製(くんせい)にしたもの。漢方薬、口紅・頬紅に使われました。

https://minabe.net/gaku/kurashi/ubai.html

奈良県五條市西吉野町に「賀名生(あのう)梅林」があります。賀名生は足利尊氏に追われた後醍醐天皇が、吉野山に入る前に滞在したところです。

https://www.travel.co.jp/guide/article/37438/

南北朝統一と同じ頃、李氏朝鮮が建国されました。

李氏朝鮮を建国した太祖李成桂の出自については諸説あるようですが、全州李氏で、その全州李氏の紋章は「李花紋」となっています。全州李氏とは、韓国の苗字(姓)の一つ。韓国全羅北道の全州を本貫(苗字の発祥地)とする李氏。

 http://www.kampoo.com/jp/history/js/kings/01-taejo-iseonggye-jeonjuissi.htm

しかし、『国史大辞典』第13巻 によりますと、「世界で家に紋章を用いているのは、ヨーロッパの貴族社会を除いては日本のみである。」と記述されています。また『朝鮮を知る事典』においても「家紋」「紋章」の見出し語はなく、「家」の項に「日本における屋号・家紋などに相当するものは見当たらない。」という一文があります。『日本人の心がみえる家紋』には「家紋は稲文化と不老不死と中国文化への憧れの三つを大きな柱として花咲いた日本独自の文様文化。」となっています。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000025172                         

大韓帝国では、全州李氏の李花紋が 国章になっています。

日清戦争は「日本」が「清」から「朝鮮」を守り、独立させるための戦争で、 戦争に勝利した日本は、「日清講和条約」の中で、「清」に「李氏朝鮮」の独立を認めさせました。

http://kawata2018.com/2018-12-31/c

後醍醐天皇の第四皇子と李氏朝鮮が何らかの関係があるのかどうかは分かりませんが、李氏朝鮮の李花紋は、大韓帝国誕生以降に 作られたのかもしれません。併合後、韓国皇帝とその一族(李王家)には、王公族として年間150万円にも及ぶ歳費や不動産および漁業権による収入の確保が図られました。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です