有栖川宮熾仁親王は、大本教教祖の出口王仁三郎の父です。


後陽成天皇の妻は、近衛前久の娘 前子、好仁親王の母です。
近衛家は五摂家、藤原氏で藤原北家です。
近衞家第31代当主は、日本赤十字社名誉社長。国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長を歴任。特定非営利活動法人日本紛争予防センター顧問、公益財団法人日本国際フォーラム参与の近衞 忠煇です。
豊臣秀吉は、近衛前久の養子になり関白就任、後陽成天皇から太政大臣に任ぜられ豊臣性を賜りました。
徳川15代将軍慶喜の生母 ・登美宮吉子(とみのみやよしこ)は、有栖川宮家の出身で、熾仁親王は吉子の甥にあたり、熾仁親王と慶喜とは、いとこ同士ということになります。
有栖川宮は、上記の徳川家はじめ、彦根井伊家や長州毛利家、広島浅野家、久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接で、代々、次男以下の子弟を門跡寺院に法親王・入道親王として入寺させていました。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=80336
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=1636568
http://www.tsukudo.jp/hito-taruhito.html
神道の教育機関・皇典講究所
1882(明治15)年、神道の研究・教育機関として皇典講究所が設立されました。
脱亜入欧、富国強兵を目指していた明治新政府は、国家宗教として神道を大きく成長させようと考えます。
そこで皇典講究所が作られ、神職の育成を行いました。
初代総裁に有栖川宮幟仁親王が就任しました。
皇典講究所の初代所長は、初代司法大臣の山田顕義で、松下村塾で吉田松陰に師事した長州藩士です。
(知らず知らずのうちに、吉田松陰の考え方が伝わってしまいます。)
そして1890年、さらに教育機関として「國學院」が設置されます。
しかし1945(昭和20)年、日本は敗戦しGHQの管轄下に置かれます。
ここで国家神道は解体され、1946(昭和21)年に皇典講究所も解散しますが
事業と資産をすでに大学に昇格していた「國學院」が継承します。
日本法律学校は、開校当初この皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていました。
日本大学は、皇典講究所との深い関係性から大正13年(1924年)に神道教師の再教育を目的として神道講座が開講され、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織されました。

近畿大学は日本大学にルーツがあります。
近畿大学の学祖は、世耕弘一です。
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日本は、ユダヤ人のレビ族である李家に支配され、庶民は長い間、彼らのインチキにより搾取されてきましたが、RAPT理論で真実がすべて明らかになりました。
多くの人が真実を知ることは、彼ら悪人に取っては、脅威です。
真実が拡散されて、一日でも早く彼らが滅び去ることをお祈りします。