明治維新後から、政府はアイヌの保護政策を進め、アイヌを民族と認め、2019年のアイヌ新法ではアイヌを先住民族と認定しました。
ではアイヌはいつから北海道に住んでいたのでしょうか。https://youtu.be/ll09yN7eAVk
アイヌの歴史は鎌倉時代後期13世紀からの記述しか確認できていません。
アイヌの住居は縄文時代からの竪穴式住居ではなく、掘立柱建物です。文化もアイヌ文様、刺青の習慣、トリカブトの毒を使った毒矢による狩猟など独特で、言語の発音、文法も全く異なるものです。数の数え方は20進法でした。
では、アイヌ文化の担い手たちは、どこで生まれ、どこからきたのでしょうか。
モンゴルの樺太侵攻 アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴルの遠征により1263年にモンゴルに服従。翌1264年に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告、この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃しました。

この骨嵬が、アイヌ族であるとされています。すなわち1264年よりも前から樺太にアイヌが存在していたことになります。
7世紀ごろから13世紀の北海道は擦文文化の時代です。この頃はアイヌの存在は確認されていません。
擦文文化は、本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴としました。
後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられました。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=219761
擦文文化の終期は、文献資料や考古遺跡でアイヌの存在が確認できる時期と重なります。
13世紀頃、オホーツク海岸や道東に多く住んでいたアイヌは、時の経過とともに居住範囲を広げていきました。
仮説 擦文文化の時代には、北海道に縄文人の子孫がいて、樺太にアイヌがいた。アイヌはモンゴルの攻撃によって、北海道に移動してきた。
そして明治時代を経て、アイヌは日本民族との混血が進み、現在ではアイヌ系日本人のDNAとしてのみ残っていると言えます。
アイヌには、樺太からアムール川流域にかけて偏在した「熊送り」の文化があります。
熊送り(熊祭り)とは、「アイヌモシリ」(人の世界)」に熊(特にヒグマ)の姿で遊びに来たカムイ(神)の魂(霊)を、天上の「カムイモシリ」(神々の世界)に送り返す祭式儀礼です。
熊送りは、 熊の生贄 悪魔崇拝です。= イオマンテ

アイヌ民族の伝統的な考え方では、人間生活に関わりのある動植物や、人の手の及ばないもの、風や雷などの自然現象には、人間と同じく魂のあるものととらえ、それらの存在をカムイと考えています。カムイは神と訳します。
鮭をカムイチェプ(神の魚)と呼び、また、シペ(本当の食べもの)と呼んでいます。
「イサパキクニ」と呼ばれる「魚たたき棒」でサケ・マスを獲った際にその頭をたたき、サケ・マスの霊を彼らの世界に送り、再びこの世に再生し豊漁をもたらすことを願うという儀式があります。

https://charanke.jimdofree.com
https://www.maruha-nichiro.co.jp/salmon/culture/c02.html
関わりのあるものは何でも神だとするアイヌは、とんでもない悪魔崇拝者です。
またアイヌ文様は、アムール川流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しています。
http://www.ainu-museum.or.jp/siror/monthly/201802.html
以上のことから、アイヌを先住民族とすることには無理があります。
アイヌは北海道に最も古くから住んでいて、そこへ後から日本人が足を踏み入れ、現在まで差別、弾圧を受けてきた、と洗脳工作しています。
アイヌ民族に詳しくない日本人庶民を騙し、利権を貪ろうという魂胆です。
現在、アイヌを捏造し、民族問題を生み出して、日本を分断しようとする動きがあります。
2007年、国連で「先住民族の権利に関する宣言」が採択され、先住民族に自治権等様々な権利が与えられました。
それにより、北海道をアイヌによる独立国家にしようという主張が存在しています。
ユダヤ人によるフグ計画、蝦夷共和国に繋がります。


アイヌ語新聞「アイヌタイムズ」に 日本語、アイヌ語、エスペラント語 の例文の掲載がありました。

色々な国の人が、一緒に使う言葉です。
http://aynuitak.g2.xrea.com/kana_utf-8/AT11_espkana.htm
聖書の神様は、この世の人々が一つに結束して悪巧みができないように、この世の言語をバラバラにしてしまいました。「エスペラント」を共通言語として使うことは、聖書の神ヤハウェへの反逆です。
アイヌ先住民族決議の旗振り役は鈴木宗男でした!
そして「アイヌ政策推進会議」という閉ざされた空間での議論により、施策の骨格が形作られています。
ウポポイ総工費約200億円
https://e-kensin.net/news/116380.html
2020年4月24日、北海道白老町(しらおいちょう)に ウポポイ、アイヌ文化復興等のナショナルセンター が誕生します。「ウポポイ」は、アイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味します。
【ウポポイの主要施設】
- 国立アイヌ民族博物館
先住民族アイヌを主題とした日本初の国立博物館。アイヌ民族の視点で語る多彩な展示で歴史や文化を紹介します。 - 国立民族共生公園
体験型フィールドミュージアムとして、古式舞踊の公演や多様な体験プログラムを通じて、アイヌ文化を体感できます。 - 慰霊施設
アイヌの方々による尊厳ある慰霊を実現するための施設として、ポロト湖東側の高台に整備されます。

モニュメントは、アイヌ民族が祈りの儀式で使用する祭具のイクパスイ(捧酒箸)をイメージしたステンレス製。表面には秘めた力を意味する渦模様のモレウや魔よけのトゲを表したアイウシ、自然との共生を表現したフクロウがデザインされています。
https://mainichi.jp/articles/20180329/ddl/k01/040/404000c
ここにも悪魔崇拝の要素が満載です。




星野リゾートも、白老町に新たな温泉旅館「星野リゾート 界 ポロト」を2021年冬に開業します。
結局アイヌの悪巧みも創価学会でした!

北海道では、昭和49年度以降、「北海道ウタリ福祉対策」や「アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策」を実施し、アイヌの人々の社会的・経済的地位の向上を図るための施策を推進しています。
国は、この対策の円滑な推進のため、北海道が実施する「生活の安定」、「教育の充実」、「雇用の安定」、「産業の振興」などの施策を支援しています。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/policy.html
北海道開発予算におけるアイヌ政策に関する経費は、アイヌ伝統等普及啓発等経費のほか、国立民族共生公園等の整備に要する経費を含めた 2,235百万円。(国土交通省北海道局 平成31年度)

朝鮮人とアイヌ民族 歴史的なつながり
戦時下の北海道において過酷な強制労働の現場から脱出した朝鮮人たちを、アイヌの人々が匿い助け、共に生きた、という事実があるようです。
https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=7&number=25532
在日とアイヌは、どちらも優遇されています。
ユジノサハリンスクと仁川(ソウル)間の直行便が飛んでいます。
他にも繋がりがあるかもしれません。

『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では、大和から見た東方の辺境の地域、蝦夷の地を日高見国(ひたかみのくに)としました。
もともと日高見国は、古代日本列島の美称で、縄文晩期以降次第に縮小され平安時代には本土からほぼ姿を消しました。現在は日高地方、日高山脈など名称だけが北海道に残っています。静内町は北海道の日高支庁管内の町です。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=185873
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/06/17/112373#i-3
戊辰戦争で敗北した家臣たちは、家も職も失くしました。途方にくれた家臣たちは、新政府が進めた北海道開拓の入植者として移住を決意せざるを得なくなりました。奥羽諸藩の士族、仙台藩、会津藩など‥
明治政府の暗部、というか、
戊辰戦争で敗北して行き場のない人々を奴隷のように利用しようと計画していたのかもしれません。
戊辰戦争の目的は、土地の強奪と北海道の労働力の確保、というのは考え過ぎでしょうか。
そして屯田兵制度で、東北地方を中心に下級士族が多い県、西日本では主に四国から、給料を失って10年以上の、商売も農業もわからない士族たちを集団で北海道に移民させることにしたのです。
大災害で壊滅した村落から集団で移住してきた例もありました。
毎年年間6万人ほどの移民は、開拓が十分に進んだ、明治37年(1904年)終焉を迎えます。
こうした屯田制で置かれたのが陸軍の「第7師団」別名「北鎮部隊」です。
北海道の兵士だけでは足らず、東北の兵士も加えて組織された「第7師団」は、日露戦争はじめ、多くの戦いに参戦しています。
屯田兵が苦労して土地を耕す一方、北海道に赴くこともなく、土地を手にする者たちがいました。
明治30年(1897年)「北海道国有未開地処分法」は、本州の投資家にまとまった大面積の土地を、開発と引き換えに提供するというものでした。
要は、資産家や華族が、額に汗することなく、その広大な土地を手にするというものでした。
この法律は、先住民に打撃を与え、小作争議の原因にもなっています。明治の北海道には、明治時代の格差社会の歪みが顕著に表れました。
RAPT氏はブログで、戊辰戦争は茶番であったことを暴かれました。
新政府軍と戦った奥羽越列藩同盟に北白川宮能久親王が東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説があります。
新政府軍の朝敵になり、降伏しましたが、国立近代美術館工芸館近くの地に銅像が立てられています。
陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられたそうです。また、勲章を授与しています。


「蝦夷共和国」の総裁となり、箱館戦争で敗北し降伏した榎本武揚は、東京の牢獄に2年半投獄されましたが、
敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えました。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となりました。
また、殖民協会を創立し、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設しました。
そして、勲一等旭日桐花大綬章を授与しています。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=19973
榎本武揚は、開拓使から土地を払下げてもらい、榎本農場を開き、現在は榎本公園になっています。
公園内の石組みの円柱の上に、騎馬姿の榎本武揚が設置されています。
この台座は、五稜郭をイメージして、五角形の星型をしています。
榎本武揚が建立した小樽の龍宮神社は、元アイヌ民族の祭場で海路安泰と海幸祈願、熊祭を行っていたところです。
榎本武揚没後100年記念祭に、自民党幹事長であった麻生太郎が、「100年目の仲直り」と直々に参拝しました。
支配者は、かねてからどんなに矛盾があっても当たり前のように嘘をつき、嘘を守り続けてきました。
しかし、今の時代はネットが発達し、庶民も自由に真実の意見を発信できるようになりましたので、もうこれ以上人々を騙すことができなくなってきています。
現在、ユダヤ人たちは、存在しないコロナウイルス で全世界的パンデミックを計画的に起こしています。嘘のパンデミックだから、世の中では疑問や矛盾の声が溢れています。
ツィッターで、「コロナウイルス 嘘 存在しない」と検索してみてください。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。