中国共産党の生誕地は早稲田大学でした!

日清戦争後、中国人留学生大ブーム起こる!

1902年7月、宏文学院 清国教育視察団
https://www.joc.or.jp/olympism/kano/

清朝政府は日清戦争(1894年)や義和団事件(1900年)等を通し、新しい政策を実行するための人材養成の必要性を痛感し、明治維新を成功させた日本に多くの留学生を派遣した。

その数は最盛期の1906年には8000人に達している。

嘉納治五郎が発足した「弘文学院」は当時の代表的な留学生教育機関で、入学希望者が殺到していた。1906年の留学生の中では5人に1人が弘文学院の学生であった。

牧口常三郎は、1904年から07年まで、弘文学院で「人生地理学」を講義した。

『人生地理学』は、たちまちにして中国人留学生の注目を集めるところとなり、現在その中国語訳が4種類も発見されている。

https://sites.google.com/site/sokascholars2010/home/index-e/takahashi1e

中国社会主義の基盤を提供したのは日本

ヨーロッパの書物を日本語に訳したり解説したものを中国人留学生たちは中国語に訳しました。

中国語訳のなかには社会主義の思想のものも多々ありました。

孫文、李大釗(中国共産党創設の主要メンバー)らは、マルクス主義者の河上肇や幸徳秋水の書も読んでいます。

河上肇は、日本共産党に入党して「赤旗」の編集を助け、コミンテルンで決定された32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)を翻訳、「赤旗」特別号に発表し、検挙されています。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=155292
幸徳秋水(フジモンそっくり)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=15870

結果どんどんマルクス主義が普及していき、中国の知識人は、日本資本主義よりも高い社会体制があることを文献から教えられました。

上記のことから、中国の社会主義革命をつくったのは、ある意味日本であると言えます。

参考書籍

「人民」も「共和国」も日本人が考案した言葉

留学生は日本でさまざまなことを学び、それを中国に持ち帰ったが、その一つが、日本人が考案した語彙だった。明治時代、日本にも中国にも西洋の概念を表す言葉は存在せず、西洋の言葉を翻訳する必要があったが、日本では、それらは中江兆民や福沢諭吉らによって考案された。

「共産主義」「社会主義」「革命」「文化」「法律」「科学」「金融」「憲法」……などがそれだ。

「中華人民共和国」という国名のうち、「中華」を除いて、「人民」も「共和国」も日本人が考案した語彙だ。

中国共産党創設メンバーのうち、実に3分の1が日本留学経験者だ。

留学先としてとくに人数が多かったのが、早稲田大学。

 現在、日本には約27万9600人の外国人留学生がいる(日本学生支援機構、2020年度の調査)が、国別では中国が最大で約12万2000人に上る。

 中国人が最も多い日本の大学は国立・私立合わせて、現在も早稲田大学だ。早稲田のホームページによると、2020年11月1日現在、外国人学生出身国・地域別で中国はトップで、3391人(同大の外国人学生全体の約63%)となっている。

 早稲田大学には1998年に江沢民、2008年に胡錦濤という2人の国家首席(当時)も来日時に訪問しており、このことは中国でも大々的に報道された。今も早稲田が中国人の間で人気があるのは、そうした経緯がある。

中国共産党100周年を前に制作された大作

https://news.yahoo.co.jp/byline/nakajimakei/20210630-00245374

新宿区内の留学生受け入れの学校

【弘文学院】 <新宿区西五軒町13(当時34)番地・現住友不動産飯田橋ビル3号館>

この学院生だった人々は、その後の中華人民共和国(台湾を含む)の建国や文化、学術など各方面にわたって、多才な活躍を見せている。

 1905年、現在の中国建国に向けて、孫文のリードする「中国(革命)同盟会」に同調した華興会<湖南>の黄興(革命軍陸軍総長兼参謀長)や宋教仁、孫文と同じ興中会<広東>の胡漢民(中国国民党長老)、陳天華(清国留学生取り締まりに抗議し自殺)、光復会<浙江>の女性革命家として著名になった秋瑾(清軍に捕まり処刑)、さらに中国同盟会に参加した李書城(軍幹部を経て中国建国後農業部長)、林伯渠(長征後に中央政治局委員)たちがいた。

 著名な作家魯迅(周樹人)は学院に2年在学のあと、医学を求めて東北大に。学院から東京高師を卒業し北京大の教授になった楊昌済は毛沢東の2番目の妻楊開慧の父親。李四光は地質学者として大慶油田を開発した。魯迅に親しく東京高師に進んだ文人画の陳師曾、歴史学や語学者の陳寅恪は兄弟。許寿裳は魯迅の親友で、台湾文化の再建に尽力、北京大教授になった。胡元倓は長沙明徳学堂校長。盧弼は史学者で、『三国志集解』などを記した。言語学者になった呉敬恒は、成城学校での私費留学生受け入れ拒否問題で座り込むなどし、蒋介石のもとで抗日運動に参加したが、政治関係の要職は断り続けた。

【成城学校】 <何ヵ所かの移転のあと、新宿区原町3-87・現在地>

成城学校は、1885(明治18)年に文武講習館として設立された。陸軍と宮内庁の強力なバックアップのもとで優れた指揮官養成のため、陸軍士官学校、同幼年学校を志願する若者たち、陸軍武学生の予備門としての機能を持っていた。

【振武学校】 <新宿区若松町2(当時33番地)にあり、現在は東京女子医科大学用地に>

成城学校への私学留学生入学拒否問題に端を発した呉孫事件(1902)を機に生まれたのが、この国立の軍事学校。

中国共産党を発起した陳独秀(成城を経て当校、東京高師、早大にも)、国民政府総統を経て、最後は台湾にこもらざるを得なかった蒋介石、蒋とほぼ行動をともにした張群、何応欽、黄郛、その系列関係で銃殺された陸士出の姜登選、楊宇霆がいた。

【成女学校】 <麹町から新宿区富久町7-30(当時20番地)に移転、現在の成女学園>

同校には、校名の由来である『坤道成女』と書かれた孫文の額が残されている。これは<乾道成男>の対語で、乾道即ち天の道は男性の基本、坤道即ち地の道は女性の基本、といった意味だという。漢文の授業を担当していた宋教仁が、孫文に依頼して額が生まれた、と思われる。

1906年女子学生12人が就学した。しかし日清両国の関係悪化や留学生のありようなどをめぐる対立などで、僅か1年半程しか続かなかった。

【東京大同学校】 <現新宿区東五軒町4(当時35番地)・いまのマンション・マストクレリアン神楽坂あたり>

西太后のクーデターで日本に亡命した梁啓超が98年、横浜の華僑らの援助で牛込区東五軒町に開いた学校。

【東京同文書院】 <当初、現新宿区山吹町で発足、その後同区下落合(当時豊多摩郡落合村下落合)に>

孫文らを支援する犬養毅、宮崎滔天らの「東亜会」(陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、内田良平らも)、近衛篤麿中心の「同文会」、すでに日清貿易研究所を開いていた「亜細亜協会」(興亜会・長岡護美、榎本武揚、岸田吟香、荒尾精ら)など、アジア主義の諸団体が合流して結成され、

近衛篤麿(学習院院長、貴族院議長)を会長として発足した。

【早稲田大学清国留学生部】 <新宿区戸塚町1-104・現在地>

 早大は1899(明治32)年ころから留学生を受け入れ、1905年、東京専門学校から早稲田大学に改称した年に、清国留学生部を設けて本格的な受け入れを始めた。

中国で早大の名はもっともよく知られ、中国要人が早大で講演するなど交流は盛んで、2017年度の中国留学生は2,800人余に上る。

早大に学んだ人脈で著名なのは、中国共産党創始の陳独秀、李大釗、彭湃、それに『共産党宣言』を中国語に翻訳した陳望道(復旦大学長)、成女学校の項で触れた宋教仁がいる。宋は暗殺されたが、同窓だった廖仲愷が第2革命に取り組んだ。また、弘文学院留学第1号の唐宝鍔、戢翼翬がいる。陳溥賢(ジャーナリスト)、李士偉(民国中央銀行総裁)、金邦平(段祺瑞政権の農商総長)、張継(反共右派の国民党西山会議派、参議院議長、立法院長も)、汪栄宝(駐日公使)、陸宗輿(清国、袁、汪政権などで要職に)、江庸(法律家、司法総長、駐日留学生監督、全人代代表も)、魯迅の友人である銭玄同(文字改革の国語学者、北京師範大教授)、章士釗(民国後北京大校長、第2革命で日本亡命、教育総長も)、林長民(法制局長、司法総長)蔡培(汪兆銘時の南京市長、駐日公使)など多士済々である。

新宿区周辺で留学生を受け入れた学校

[日華学堂] 仏教学者でエスペランティストの高楠順次郎・東京帝大教授が、本郷西片町に創設。

成城学校が軍事方面の留学生を受け入れたので、文科系の予備校とした。校長の宝閣善教をはじめ西本願寺出身者らが中心。高楠は2年後に日本橋簡易商業夜学校(現中央学院大学)を設ける。

最初の入学は4人。出身者に、章宗祥(袁世凱のもとの司法総長、駐日全権公使)、早大に進んだ金邦平らがいる。

[東亜高等予備学校] 辛亥革命後、袁世凱派による宋教仁暗殺が引き金になって、第2革命が起き、この革命の失敗で日本への亡命者が増大、収容しきれないため、松本亀次郎(弘文学院で教えた)は14年1月に神田区中猿楽町(現千代田区神田神保町2-2)に校舎を新築し、この校名とした。

 1931(昭和6)年の満州事変(柳条溝事件が契機)、翌年の上海事変が起きて一斉に帰国した学生が、32年秋ごろから戻り始めて、33年末には1,059人にまで増え、35年秋には新入生が週に1,000人内外、との報道記事がある。来日の新旧学生は全体で6,000から6,500人に及ぶ、としている。実藤恵秀は『中国人日本留学史』で、この原因について、満洲事変後の日本研究熱の高まり、中国側にとっての為替相場の好転を挙げている。同時に、新満洲国での就職の期待よりも、「抗日救国」のために、まず日本を見極めようとの意味が、中国発行の新聞雑誌から読み取れる、という。当校の記録には、35年12月には1,980人という創立以来の記録で、申し込みを停止するほどだった。これに伴い、神田を中心に私塾、講習会風の日本語の学院が多数登場している。

 なお、この学校の跡地は神田神保町の愛全公園付近で、ここには『周恩来ここに学ぶ』の碑が建っている。

[実践女学校] 下田歌子が麹町に開校、のちの実践女子学園。1901年に清国女性が1人入学、翌年5、6人となり、05年には20人ほどが入学、清国留学生部を設けた。09年には55人中30人が寄宿舎に入り、19人が子持ち、未婚27人だった、という。
 関東大震災前年の1922年まで存続、その卒業生は100人近い、という。刑死した革命派の秋瑾もここに学んでいた。

[経緯学堂] 明治大学が1904年、神田錦町校舎に200人で開校。翌年には1,000人を超え、06年は1,104人。1910年の閉校までに2,862人が入り、1,384人が卒業した。

[法政大学速成科] 法学者、教育家で総長の梅健次郎が1904年に、清国公使・楊枢の賛同のもと、速成科を発足。当初は94人で、05年の卒業は67人。08年までの卒業生は1,070人。1920年に受け入れ中止に。

 出身者には、蒋介石系の汪兆銘、孫文の側近で辛亥革命で活躍した胡漢民、抗日救国運動に取り組み、共和国建国後の最高人民法院長だった沈鈞儒、日本留学生取り締まり法規ができた際に抗議の自殺をした陳天華らがいる。

[東斌学堂] 東京帝大教授、法学者の寺尾亨が1905年に芝公園内に開校。08年まで続く。寺尾は日露戦争推進の『東大七博士意見書』のひとりでアジア主義を説く。孫文の辛亥革命の際には、教授職を辞めて、孫文のもとに駆け付けた。開校のきっかけは、成城学校で私費留学生拒否の事件が起きた際、陸軍をめざす私費留学生の教育のために開いた。最初の学生は160人、06年夏に175人、07年末に321人。 

[志成学校] 立教大学総理ジョージ・タッカーが築地・立教大学内に創設。1907年に学生90人で発足、10年の在学は44人。

[高等警務学堂] 警官、憲兵の養成。神田雉子町に出来、堂長は勘解由小路資承。1906年600余人、翌年200人に減少。1905年創立。

[東京警監学校] 警察、監獄用務のため。谷中真島町に寺尾亨が創設。07年末213人。1906年創立。

[東亜鉄道学校] 1904年、小石川茗荷谷に四川の留学生12人を受け入れ、07年165人。06年に校名変更。土木家・笠井愛次郎校長。熊本市にある開新高等学校の前身は「1904年創立、東亜鉄道学院」としており、関係があったか。笠井は児島湾干拓など各地の土木工事を手掛け、九州鉄道にも関わったことがある。

[湖北鉄路学堂] 湖北人の鉄道要員育成のため。神田三崎町に張之洞経営。学生80人。1906年創立。

[路鉱学堂] 鉄路、鉱務の2科。神田美土代町。湖北省が鉄道建設、鉱山開発などを担う人材を日本に派遣させた。魯迅も江南の路鉱学堂に学んだあと、来日した。

https://www.alter-magazine.jp/index.php?明治・大正期に日本に学んだ中国(清国)の学生たち

韓国皇室特派留学生は慶應義塾に

日清戦争後における日本の勢力拡大を背景に,朝鮮政府学部(文部省)と慶応義塾との間には留学生委託契約が結ばれた。

日露戦争が日本に有利になりつつあった1904年10月には,韓国皇室特派留学生50人が東京府立一中を中心に派遣され,日韓保護条約後の07年3月には学部所管日本国留学生規程が制定され,東京に留学生監督がおかれた。

留日学生は約500人であったが,併合後は1920年1230人,30年3793人,36年7810人,42年2万9427人と増えた。

https://kotobank.jp/word/韓国皇室特派留学生-1295189

2022.4.29追加しました。

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